「それに『あのお方』がな……」
片方の侍従の苦々しい声に、もう一人が同調して言った。
「若様の叔父上か」
「ああ。あのお方は、若様の父上と――先代様と仲が悪かった。先代様が公爵位を継ぐ際もひと悶着あったそうだ」 「じゃあ、立場の弱い若様の代になって、また欲をかきはじめたんだな」 「そうだろうよ。まったく|虫酸《むしず》が走る」ふむ……。ミレトス公爵家は身内で争いが起きているのか。
彼らの言い方を聞くに、叔父上とやらは若い公爵にいろいろと嫌がらせをしているようだ。 こういった話は貴族の中ではそんなに珍しいことじゃない。ひどいとは思うけど、事実なのだ。私は少しだけ公爵に同情した。
父である先代公爵は病気で急逝してしまったと聞いている。まだ亡くなる年齢ではなかった。急なことだったので、引き継ぎの準備もあまり進んでいなかったのだろう。 父親の死を悼む暇もなく、お家騒動になってしまったとは。侍従たちはそろってため息をついた後、黙って書類整理を再開した。
しばらく様子を見ていたが、これ以上は話が聞けそうにない。 私はまたこっそりと移動を始めた。あちらこちらと屋敷の中を動き回ってみる。 けれど今まで以上の収穫はなかった。 時間もそれなりにかかってしまったし、そろそろ戻る頃合いだろう。リスの姿で廊下を駆け抜けながら、私は仕入れた情報を整理する。
公爵家の実情は、表に知られているよりもだいぶ悪い。むしろ上手に隠したものだと思う。 使用人たちの態度で、彼らは公爵家に忠誠が厚いと感じられた。みな、叔父とやらを嫌って若い公爵を案じていた。 今の若公爵は女たらしの遊び人だが、きっと先代公爵が優れた人だったのだろう。そんなふうに考える。(それにしても、我が伯爵家の情報収集能力の低さはどうなの)
私は内心でため息をついた。
両親はミレトス公爵を優良物件と信じ切っている。遊び人の件はともかく、身内のいざこざにまったく気づいていない。 使用人たちが一丸となって情報を守っているのかもしれない。 だとしても、王国の建国期に諜報活動で名を馳せた伯爵家の名が泣いているよ。 もっとも、現役バリバリのスパイの家系だったら、それはそれで嫌だけど。(実家が属する派閥の長――侯爵家令嬢じゃなくて、私に縁談が来た理由。分かった気がする)
我が伯爵家は派閥の中では中堅どころ。
派閥のリーダーである侯爵家を差し置いて、私に縁談が来たのは少しおかしいと思っていたのだ。 たぶん、侯爵家はミレトス公爵の事情をある程度つかんでいるのではないか。それで立場の弱い公爵に娘を嫁がせることはせず、我が家と私に白羽の矢を立てた。 派閥としては公爵家に影響力を強められればいい。万が一、若い公爵が足元をすくわれて当主の座を追われても、伯爵家令嬢にすぎない私であれば簡単に切り捨てられる。そんなところか。うんざりする。(やめよう。さすがにただの推測だもの)
私は頭を振って思考を切り替える。
今日は初日としてはまずまずの成果を得られた。もうしばらく通ってもっと裏付けを集めるつもりだが、今日のところはいいだろう。 情報をきちんと揃えて、ミレトス公爵は優良物件ではないと両親に訴えれば、婚約を考え直してもらえるかもしれない。 あるいは、お見合いの席で「そっちの内情、分かってますけど?」とそれとなくプレッシャーをかけて、向こうから断ってくるのを待ってもいい。屋敷の人びとに見つからないよう、さらに走る。
侍女たちはきちんと掃除をしていた。だから廊下も部屋も清潔ではあるのだが、どこか素っ気なく暗い印象を受けるのはどうしてだろう。 使用人らはピリピリと緊張した様子で、空気が張り詰めている。(きっと、大事な時期なのに主である若公爵が浮気ばかりしているから、みなが落ち着かないんだ)
私はそう思った。
考えながらも走り続けて、最初に入った厨房まで戻ってきた。 夕食の準備が始まったようで、何人かの料理人が立ち働いている。 窓は開いたままだ。 私はテーブルや調理器具の陰に隠れながら、そうっと窓まで近づいた。無事に窓をくぐり抜けて、地面に着地する。 あとは庭を戻って、塀を登って帰ればいい。ところが。
庭を走り始めた私めがけて、黒い影が襲いかかってきた!小さなリスの私に、空から黒い影が襲いかかる。「カァー!」 窓から飛び出した私に向かって、カラスが飛んできた。カラスはリスよりずっと大きい。捕まったら大変だ。 私は必死に走った。カラスの羽音が迫ってくる。 くちばしで後足を突っつかれた。痛い! それでも走る。 庭木の根本に逃げ込んだが、カラスは諦めなかった。近くを旋回して飛んで、鋭い目を向けてくる。 カラスは大きく羽ばたくと、急降下してきた。 まずい、逃げ切れない。人間の姿に戻るしかない。こんな庭の真ん中で人間に戻ったら不審者として捕まるだろう。それでもカラスに食べられるよりはマシだ! そう覚悟したとき。 バサバサと羽音が乱れた。 冬枯れの庭木の枝がにゅっと伸びてきて、私を守るように広がっていく。 なにこれ! 黒い羽が何枚も目の前に舞う。カラスが慌てたように逃げていく。 見上げれば、鞘におさめたままの剣を持った人。金の髪に深緑の目の、とてもきれいな顔立ちの青年だった。 両耳につけた耳飾りは、彼の瞳と同じ緑の石。小さいけれど不思議な煌めきを放つ宝石。「リス? カラスに追われていたのか? ……怪我をしているな」 私は逃げようとしたけれど、後足が痛くて動けなかった。 大きな手が私をすくい上げる。そんな彼に近づいてくる人がいた。服装からしてこの屋敷の使用人、執事だろう。「閣下、どうしました」「リスがカラスに追われていた。怪我をしている。手当してやらないと」「ではわたくしが」「いや、いい。俺がやろう。治癒魔法をたまに使わないと、腕が鈍ってしまう」 彼らはそんな話をしながら歩いていく。 振り返ると、不自然に伸びた庭木の枝がするすると戻っていくところだった。何かの魔法だろうか……。 私を抱えた男たちは、屋敷の中へと入った。 ――閣下、ということはこの人がミレトス公爵か。 出くわすのは予想外だったが、いい機会だ。この目でよく見ておこう。 公爵は執事を連れて執務室に入った。 大きな執務机の上にそっと置かれた私は、油断なく周囲を見回す。この部屋にはまだ入ったことがなかった。よく調べてやらないと。「大人しくしていて」 存外に優しい声音で言われてトキッとした。 怪我した後足に触れた指先が、少しの熱を帯びる。みるみるうちに痛みが引いて、傷口がふさがった。小さい怪我とはいえ、見事な
「それに『あのお方』がな……」 片方の侍従の苦々しい声に、もう一人が同調して言った。「若様の叔父上か」「ああ。あのお方は、若様の父上と――先代様と仲が悪かった。先代様が公爵位を継ぐ際もひと悶着あったそうだ」「じゃあ、立場の弱い若様の代になって、また欲をかきはじめたんだな」「そうだろうよ。まったく|虫酸《むしず》が走る」 ふむ……。ミレトス公爵家は身内で争いが起きているのか。 彼らの言い方を聞くに、叔父上とやらは若い公爵にいろいろと嫌がらせをしているようだ。 こういった話は貴族の中ではそんなに珍しいことじゃない。ひどいとは思うけど、事実なのだ。 私は少しだけ公爵に同情した。 父である先代公爵は病気で急逝してしまったと聞いている。まだ亡くなる年齢ではなかった。急なことだったので、引き継ぎの準備もあまり進んでいなかったのだろう。 父親の死を悼む暇もなく、お家騒動になってしまったとは。 侍従たちはそろってため息をついた後、黙って書類整理を再開した。 しばらく様子を見ていたが、これ以上は話が聞けそうにない。 私はまたこっそりと移動を始めた。あちらこちらと屋敷の中を動き回ってみる。 けれど今まで以上の収穫はなかった。 時間もそれなりにかかってしまったし、そろそろ戻る頃合いだろう。 リスの姿で廊下を駆け抜けながら、私は仕入れた情報を整理する。 公爵家の実情は、表に知られているよりもだいぶ悪い。むしろ上手に隠したものだと思う。 使用人たちの態度で、彼らは公爵家に忠誠が厚いと感じられた。みな、叔父とやらを嫌って若い公爵を案じていた。 今の若公爵は女たらしの遊び人だが、きっと先代公爵が優れた人だったのだろう。そんなふうに考える。(それにしても、我が伯爵家の情報収集能力の低さはどうなの) 私は内心でため息をついた。 両親はミレトス公爵を優良物件と信じ切っている。遊び人の件はともかく、身内のいざこざにまったく気づいていない。 使用人たちが一丸となって情報を守っているのかもしれない。 だとしても、王国の建国期に諜報活動で名を馳せた伯爵家の名が泣いているよ。 もっとも、現役バリバリのスパイの家系だったら、それはそれで嫌だけど。(実家が属する派閥の長――侯爵家令嬢じゃなくて、私に縁談が来た理由。分かった気がする) 我が伯爵家は派閥の中では
公爵家の広い敷地を前にして、私は横合いの路地に入った。ペンダントを首にかけ、誰もいないのを確認してから魔法を発動させる。 自分の体が一瞬だけ発光して、次に視点がぐんと変わる。 私は小さなリスに変身していた。 これこそが秘伝の魔法だ。貴族家はたいてい一つは特別な魔法を持っている。 我が伯爵家のそれは動物、特に小動物への変身を得意とする。 古い時代はスパイとして活躍したらしい。今となってはあまり使い道がなくて、家族の中でも真面目に練習していたのは私くらいだ。 魔法を使えば服は消えて、元の人間の姿に戻るときちんと服を着ている。いちいち裸になったりしないのである。「キュゥ」 リスになった私は塀を見上げた。人間の目で見るよりもずっと高い塀は、だが、小さいでこぼこがあってリスならば登れる。 私は爪を引っ掛けて壁をするすると登った。ふさふさの尻尾はバランスを取るのに便利である。 冬の木枯らしが吹いたが、リスの毛皮は立派なのだ。寒くても平気。 すぐに塀の上に出る。 さすがに公爵家の敷地は広く、お屋敷はずいぶん向こうに見えた。 ただ冬枯れしているとはいえ、庭がやや荒れているようにも思う。公爵は草花に興味のない人なのだろうか。……まあ、それは今気にするところじゃない。「ピャー!」 気合の声ひとつ。私は塀から飛び降りて、屋敷に向かって走り出した。 開いている窓を見つけて、私は公爵家の屋敷に潜り込んだ。 窓の先は厨房である。今は昼食が終わった後で、夕食の準備にはまだ早い。誰もいなかったので先に進んだ。 廊下では侍女たちがホウキや雑巾で掃除をしていた。 柱の陰に隠れて様子をうかがう。「公爵閣下はいつ頃お戻りになるかしら」 その中の一人、比較的若い侍女が言った。年配の侍女が答える。「夕方には戻られるはずですよ。それまでにしっかり掃除を終わらせるように」「はい。……無事に戻られますよね?」「当たり前でしょう」「でも、あの。閣下は、その……複雑な立場でいらっしゃるから」 うん? どういう意味だろう。私は耳をそばだてた。「いつも『あのお方』が邪魔ばかりして。本当はみなで若い閣下を支えるはずなのに」「……あなた。めったなことを言うものではありません」 不満そうな若い侍女に、年配の侍女が釘を刺す口調で言った。「我々使用人が公爵家の方々に口を
「俺が今後、きみを愛することはない」 初夜の寝室で、私の夫となったルクス・ミレトス公爵は言った。 明かりの少ない室内で、彼の綺麗な金の髪と深緑の瞳が鈍く光っている。「この結婚は、政治バランスを重んじただけの政略結婚。必要なのは利害と縁故。愛や情ではない」 本来であればとても冷酷な宣言だと思う。 けれど私は答える。微笑みさえ浮かべて。「ええ、分かっております。どうぞ、貴方のお心のままに」 どうしてこんなことになったのか。 夫が去った寝室で一人、私は数ヶ月前、まだ冬だった頃の出来事を思い出していた―― ミレトス公爵との婚約が決まった。 そう告げられたときの私の気持ちは「冗談じゃない!」だった。 私は伯爵家の次女クレア。十七歳。両親から冷遇されている……というほどではないが、あまり手もお金もかけられずに育った。 だから私はどこの家に嫁いでも生きていけるように、領地経営の勉強をがんばってきた。華やかな社交の場は誰もがやりたがるが、地味で苦労の多い領地の運営は嫌う奥様や令嬢が多い。 その点に目をつけて、自分の価値を高めるために努力してきたつもりだ。「ミレトス公爵のどこが不満なんだい。王家との血縁も濃い高貴なお方で、公爵位にふさわしい財産の持ち主でもある。年齢も十九歳と、お前と近い。伯爵家の我が家にとってこの上ない良縁だろう」 私の表情を見て父が言う。私は言い返した。「不満ですとも。公爵といえば、女たらしで有名な人ではないですか。いつも違うご婦人を侍らせて、泣かせた人数は山ほどです。そりゃあ私は、どこに嫁いでもやっていけるように覚悟していました。でもそれは、夫となる人と信頼を築けての話です! 誠実さのかけらもない人とパートナーになるなんて、考えられない!」 私はいとこのレナの話を思い出した。彼女も公爵に遊ばれて捨てられた女性の一人。『甘い言葉をささやくばかりで、何も責任は取ってくださらないのよ!』と泣いていたっけ。 レナと私はそんなに仲がいいわけじゃないが、その話を聞いたときは心から同情したものだ。 まだある。 私が夜会に出たとき、ミレトス公爵の姿を何度か見かけた。するとそのたびに違う女性を連れていたのだ。 表面上は丁重に扱っているように見えたが、実際はどうだ。アクセサリーのように女性を取っ替え引っ替えなんて、とんでもない。 その